|
|
|
| |
天正十五年(1581)5月19日付で富田頼雄によって記されました貝塚寺内基立書によりますと、寺内は往古五丁余の松原で民家三十六軒と庵寺があり、この草庵は僧行基の開基と伝えられ、応仁年間には蓮如上人が立ち寄って教えを説いたといわれます。その後永らく無住でありましたが、村人が協議して天文14年(1545)京都の落人右京坊、実は日野権大納言光卿の遺子、幸丸を根来寺福永院より迎えて住持としました。この右京坊が後の卜半斎了珍(法名三明院殿釋了入、以下了入と記す)であります。
門徒の代表佐郷屋藤右衛門は、卜半斎了入、その余の門徒衆と力を合わせて天文19年(1550)に草庵を再興し、証如上人より方便法身の弥陀画像をうけ、天文24年(1555)3月、石山本願寺寺内にとりたてられ、僧俗一体となって計画的な環濠城塞都市の建設が始まったのであります。
永禄11年(1568)尾張国に勢力を誇る織田信長は天下統一をめざし石山本願寺に次々と難題をもちかけ、遂に元亀元年(1570)より十余年に亘る石山合戦が始まりました。そして天正4年(1576)4月、織田信長は石山本願寺の総攻撃を始めたのであります。時の本願寺顕如宗主は、全国の門徒に檄をとばし、貝塚門徒も近郷近在の住民こぞってこの法難に立ち向かったのであります。
また毛利の水軍によって運ばれた食糧は、貝塚の浜辺に陸揚げされ、和泉、雑賀の門徒衆がこれを石山本願寺に運んだといわれております(毛利家文書)。このため織田信長は周辺の本願寺勢力を打破するため天正5年(1577)2月、織田信忠を将として貝塚に大軍を差し向け貝塚寺内は道場をはじめ民家の悉くは焼払われ、逃げ遅れた者2〜300名が犠牲になったといわれています。
天正8年(1580)4月、顕如上人は信長と和平を結び石山本願寺を明渡して紀州鷺森に移られたのでありますが、一方この貝塚も離散していた住民が焦土と化した寺内に次々とたち帰り、
卜半斎と共に寺内の復興に努めそれまでの草葺きの草庵にかえて、新たに板葺きの八間四面の本堂(板屋道場)を再建したのであります。
石山の法難で本願寺を支えた主力が雑賀衆であったことから、紀州鷺森に移った本願寺は、雑賀衆の内紛や地理的に不便であったこともあり、また豊臣秀吉から卜半斎への働きかえもあって天正11年(1583)7月4日、顕如上人、教如上人、顕尊上人等本願寺のご一行は、海路鷺森より貝塚に到着、正午頃貝塚道場に入られ、ここに貝塚の道場は本願寺となったのであります。
本願寺が貝塚に移ると近郷近在はいうに及ばず全国各地より参詣者が訪れその賑わいは想像を絶するものがあったと思われます。天正13年(1585)8月30日、大阪天満に本願寺造営がなって顕如宗主以下がお移りになりますが、この時顕如宗主より卜半斎に対して後来席を一家と同じくし、式を本寺に準ぜよとのお言葉があったと伝えられており、其の後慶長12年(1607)には准如宗主より「願泉寺」の寺号と「親鸞聖人伝絵(四幅、慶長12年8月6日、准如上人裏書)」が授与されております。
慶長7年(1602)10月16日、卜半斎了入は77歳をもって浄土往生を遂げられましたが、慶長15年(1610)二代了閑は徳川家康より寺内諸役免許の黒印を授けられ、卜半家は貝塚の地頭となり、寺内町は明治維新に至るまでその形態を保ったのであります。この間に本願寺の東西別立ということがありましたが、願泉寺は昭和19年(1944)まで東西兼末として両本願寺に属してきたのであります。一方、徳川家との格別の縁によって寛永13年81636)四代了周は、東叡山寛永寺において得度、慶安元年(1648)10月には「真教院」の院号を、寛文8年(1668)3月には「金凉山」の山号を授けられ、また宝永6年(1709)3月以降輪王寺宮院家となり、以後真宗教義のほかはすべてその指揮を仰いだが明治維新におよび往古の因縁に復し本願寺末として現在に至っております。
「※参照:願泉寺と貝塚寺内町沿革」 |
|
| |
|
| |
| 住所 |
 |
大阪府貝塚市中846 |
| 宗派 |
 |
浄土真宗 本願寺派 |
| 御本尊 |
 |
阿弥陀如来 |
| 開基 |
 |
|
行基菩薩 |
| 創建 |
 |
天平16(774)年 |
| 拝観料 |
 |
不詳 |
| 年中行事 |
 |
| |
11月2・3・4日 |
ぼっかんさんのお佛事 |
12月31日 |
除夜の鐘 |
|
|