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人皇第四十五代聖武天皇が自分の信仰して居られた弥勒仏の浄土兜卒世界をこの世に顕現したいものと考えられた。所が経に依るとこの浄瑠璃世界には四十九の立派なお寺(四十九院)のある事が説かれている。乃ち奈良の都を中心として五畿内(近畿地方)に四十九の立派な寺院を建てる事を発願せられ其の建築についての一切を僧行基に委嘱せられたのである。行基は場所の選定から設計其の他一切を指揮監督してこの四十九院を建立せられたのである。
今この釘無堂もその四十九院の一つだと伝えられている。思うに木島、木積等の地名より見ても当地方は木材の豊富な所であり交通の便も悪くなく一大寺院建立の条件がそろっていたと考えられる。現在は一堂のみを残しているが勿論創建の当時は金堂、塔、経蔵、山門、鐘棲、皷棲、庫裏等所謂七堂伽藍がいとも立派にそびえていた事であろう。時に神亀三年(AD726年)春三月であった。尚寺伝に依るとこの他に僧房が二十六、七棟もあった事が伝えられている。
ところが足利時代にこの地方を所領にもらっていた山名氏が乱を起しその後山名氏に代った領主大内氏も又乱を起し当地方が戦場になった事がある。その時に大半は焼失してしまった様である。その後天正十三年に豊臣秀吉が紀州の根来寺を攻めた所謂根来攻の時に残っていた建物がすっかり焼かれてしまって唯一の今の釘無堂だけが焼け残ったのである。戦火の中何はさて置き仏像だけは助けねばと附近の池中に投じ置き
戦火のおさまるのを待って水中より取り出して唯一つ焼け残った堂の中におさめたと言い伝えられている。
釘無堂は奈良朝時代の建物が、そのまま残っている事になるがそうではなく現存の建物は純粋の鎌倉時代の建物である。惟うに創建当時より鎌倉時代位まで時代がたつとおそらく木が腐ったり、こわれたりしたものであろう。この時代に解体して新しく建立しなおしたものと推測される。現在建物の一部に創建当時のものと思われる特に古い柱が四本ばかり使用されている。
この堂は大阪府下では最古の木造建築物であり、建築様式も非常に珍しくこの時代の建築物を代表するものとして昭和二十八年十一月新国宝に指定された。因に釘無堂という名称について一言つけ加えて置く、名前が釘無堂であるから、誰も彼もが一応釘の有無を問題にする。大体寺院の本式建築をすると殆んど組物で釘等用いなくても、がっちり出来上がってしまう。全国どこへ行っても本式の堂宇建築ならば皆そうである。だから釘無しで建てられた堂は沢山あるわけである。所が田舎にこんな本式の立派な建物が出来たものだから土地の人々が釘を使用せずに組まれた建物を良くも思い珍しくも思い又自慢したに違いない。だから釘が使ってあるか釘が使ってないかと言う事がこの堂の良し悪しをきめるものではなくこの堂の立派な価値は先にのべた鎌倉時代の代表的な遺構である事と手法がめずらしいと言う事にかかっているのである。
「※参照:国宝釘無堂解説より要約抜粋」 |
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| 住所 |
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大阪府貝塚市木積798 |
| 宗派 |
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浄土宗 |
| 御本尊 |
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阿弥陀如来 |
| 開基 |
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行基菩薩 |
| 創建 |
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神亀3年 |
| 拝観料 |
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無料(仏像拝観 有料) |
| 年中行事 |
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