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当奈加美神社の旧社である、大宮神社の勧請については、その年代等は詳らかにされていませんが、平安朝の初期、あるいは平城時代にかゝるものではなかろうかと、古文書等から、年代推測がなされているものの、それを知るに確たる資料は残されていません。しかしながら、その沿革は極めて古いとされており、普通には、大宮神社、また略して単に大宮と称され、本郷中庄の惣鎮守として、本郷はもとより、近郷の住民からも、崇敬を一手に鐘めていたと微されています。
本地の平松家、佐野の藤田家所蔵の古文書等によると、其の后、近郷地氏子中から、自らの地の守護神として、大宮神社の分霊を勧請する声が起り、人皇八十八代後深草天皇の宝治二年(一二四九)、佐野領域である近郷の大武家村(現在の大引分町)の地に、大引分神社(市内大引九一一)が、大宮神社の分社として、造営建設されたとあります。
ここに今を去ること実に七百二十余年前に、すでに分社をなし、末社を持っていたことからしても、本大宮神社の創建の年次が極めて古いものであったことを物語るものであり、平城時代ないし、平安朝の期に、その創建を求めても、あながち無理な推測ではないと考えられます。
また古くは、当大宮神社は、大宮大明神とも称され崇められていましたが、神仏混淆の習合に則って、真言宗の社僧が神社の祭祀にあたり、その往時には神社を庵と呼称され、大宮神社のことを大宮庵と称されていた時期もあり、古記にも、佐野大引分寺、遊観寺、遍照寺等の僧職が、神社祭祀を預かった由とあります。もっとも神職による神明奉仕についての証についても多く残されていますが、すべて江戸期以降のもので、それ以前のものについては何ら資すものが残されておりません。
本地湊町の教蓮寺古文書の微するところに依りますと、大宮大明神は、紀州根来寺の触下で、社領三千石を有していましたが、天正四年(一五七六)四月から始まった織田信長の石山本願寺の攻略策に対しこれに抗すべく、本願寺光佐(顕如)は全国の一向宗門徒に檄を発したのですが、これに応えていち早く紀伊雑賀(和歌山市)の一向宗徒達が立ち上り、これに呼応して根来寺も信長の社寺焼討等の非道非理な社寺に対する政策を忌み、本願寺側にくみすることとなった訳ですが、この戦については「後大平記」にも詳しく見られるように、織田勢の一方的勝利に終始して、翌天正五年(一五七六)三月、根来寺は破却されるとともに、寺領八十万石が奪い取られましたが、その折、信長は、京都にたち帰る途中、本大宮大明神を焼払ったとのことであります。
この信長との戦いには、本願寺側にくみした雑賀一揆、根来寺衆のみでなく、多くの地元の一揆も参加したとのことであり、このため多くの民家が焼討され、逃げ遅れたもの二〜三百人もが討取られたとあり、本地もこの石山合戦のあおりにより忌々しい災厄を蒙ったことは事実のようです。そして大宮神社の建造物が悉く鳥有に帰したことは誠に惜むに余るものがあります。
「※参照:奈加美神社由緒書」 |
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| 住所 |
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大阪府泉佐野市中庄834 |
| 主祭神 |
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誉田別命(応神天皇)
(旧大宮神社、旧若宮神社) |
| 御配神 |
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比売命
息長帯姫命(神功皇后)
(以上二柱神、旧若宮神社)
蛭子命(旧戎神社)
天児屋根命(旧藤原神社)
市杵島姫命(旧市杵島神社)
菅原道真公(旧菅原神社)
素盞鳴命(旧八坂神社、旧奥宮神社、旧牛神社)
八衢彦神
八衢姫神
久那斗神
(以上三柱神、旧塞神社)
土(道)祖神(旧篇吾神社)
豊受保神
水久萬利神
美刀志神
(以上三柱神、旧稲荷神社)
白玉稲荷大明神
(奈加美神社境内社) |
| 御鎮座 |
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不詳(平城天皇御代〜平安初期?) |
| 拝観料 |
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無料 |
| 年中行事 |
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1月1日 |
元旦祭 |
1月9・10日 |
十日戎祭 |
3月中旬 |
稲荷祭 |
4月下旬 |
祈念祭 |
5月5日 |
子供祭・勧学祭 |
6月下旬 |
田植祭 |
10月9・10日 |
秋祭 |
11月15日 |
七五三詣 |
11月23日 |
新嘗祭 |
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