| 修験道関連書籍 |
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図説 役行者
修験道と役行者絵巻
(河出書房新社) |
| 名刹に遺された秘宝を紹介しつつ、日本古代史の謎の超人・役行者の全貌と日本人の信仰の原点を明らかにする。国内外の美麗な「役行者絵巻」4本もカラーで紹介。 >>続き |
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役行者霊蹟札所巡礼
(朱鷺書房) |
1300年の昔に活躍した役行者は、修験道の開祖と崇められる。近畿各県にある役行者ゆかりの36寺が集まり巡拝霊場が結成された。その巡礼ガイド。縁起、地図・道順などを詳説。
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修験道―その歴史と修行
(講談社) |
山岳を神霊、祖霊のすまう霊地として崇め、シャーマニズム、道教、密教などの影響のもとに成立した我が国古来の修験道―。筆者自らが現場に立ち合って調査した、臨場感あふれる興味深い論考。開祖役行者が修行したとされる吉野を中心として、修験宗各派の教義と活動の場を詳細に比較研究し、「行」の重要な役割を浮き彫りにする。
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弘川寺は、名峰葛城の麓にあり、天智天皇の四年に役行者が法華経二十八品に配して金剛・葛城の連山に二十八ヶ所の霊場を開かれた随一で、大阪府史蹟指定の古名刹であります。
天武天皇白鳳5年の夏、天皇は当寺に請雨の祈願を命ぜられ、同八年の春行幸せられ勅願寺となりました。その後天平九年には行基が当寺で修行、弘仁三年には弘法大師が嵯峨天皇の命によって中興され、密教の霊場と定められました。
文治四年後鳥羽天皇が御病気の時、当寺の座主空寂上人は宮中に於て尊勝仏頂の法を修し回癒せられました。その功により奥の院「善成寺」を建てられ、寺号の勅額を賜わりました。歌聖西行法師は晩年の文治五年、当寺の座主空寂上人の法徳を慕って来られ、こゝに住み「願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」の願い通り文治六年二月十六日、七十三才当寺で入寂されました。
南朝の忠臣で楠公の後胤隅屋与市正高卿は、弘川寺より東方二十丁の所に築城、よく賊軍を攻防して誉れ高き武将でありましたが、戦は遂に利なく、全軍弘川寺に下りて奮戦しました。しかし其の甲斐もなく当寺境内大桜の下で自刃されましたことは、河内名所鑑、河内名所図絵に審かであります。大樹さくらの株は絶えましたものゝすやざくらの名は今も朽ちないのであります。
河内国の守護畠山氏は、兄弟によって河内国の争奪戦をつづけ、兄政長が当山に拠り、弟義就がこれを攻めて寛正四年四月十五日弘川・善成の二ヶ寺をすべて焼失しました。しかし本尊薬師仏をはじめ弘法大師像、空寂上人像、勅額(以上府文化財指定)等は兵火をまぬがれ今に現存奉安しています。
歌僧似雲法師は、「五畿内志」の作者並河五一郎から西行上人終焉の地は藤原俊成の歌集「長秋詠草」の所載により、河内の国弘川寺であることを教えられ、紅州石山寺に祈願の後享保十七年二月十六日西行の古墳を発見しました。その後西行堂を建立し、境内に「花の庵」を建てゝ住み、八十一才の生涯を西行の顕彰に尽くされました。
「※参照:西行法師終焉地 弘川寺」 |
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| 住所 |
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大阪府南河内郡河南町弘川43 |
| 宗派 |
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真言宗醍醐派 |
| 御本尊 |
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薬師如来 |
| 開基 |
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役行者神変大菩薩 |
| 創建 |
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天智天皇4年 |
| 拝観料 |
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無料
(本坊庭園 有料) |
| 年中行事 |
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4月1日〜5月10日 |
西行記念館開館 |
10月10日〜11月20日 |
西行記念館開館 |
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