| 修験道関連書籍 |
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図説 役行者
修験道と役行者絵巻
(河出書房新社) |
| 名刹に遺された秘宝を紹介しつつ、日本古代史の謎の超人・役行者の全貌と日本人の信仰の原点を明らかにする。国内外の美麗な「役行者絵巻」4本もカラーで紹介。 >>続き |
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役行者霊蹟札所巡礼
(朱鷺書房) |
1300年の昔に活躍した役行者は、修験道の開祖と崇められる。近畿各県にある役行者ゆかりの36寺が集まり巡拝霊場が結成された。その巡礼ガイド。縁起、地図・道順などを詳説。
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修験道―その歴史と修行
(講談社) |
山岳を神霊、祖霊のすまう霊地として崇め、シャーマニズム、道教、密教などの影響のもとに成立した我が国古来の修験道―。筆者自らが現場に立ち合って調査した、臨場感あふれる興味深い論考。開祖役行者が修行したとされる吉野を中心として、修験宗各派の教義と活動の場を詳細に比較研究し、「行」の重要な役割を浮き彫りにする。
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法楽寺は山号を紫金山、院号を小松院と号し、真言宗泉涌寺派の大本山です。むかしから”たなべのお不動さん”の名で親しまれ、一筋の信仰に支えられて八百年の法灯を守り続けてまいりました。開基は平家の棟梁平清盛公の嫡子、小松内大臣平重盛公、治承2年(1178)の草創と伝えています。院号は小松の大臣と呼ばれました重盛公にちなみ、山号の紫金山は当山におまつりいたします紫金ニ顆の仏舎利を示しています。紫金ニ顆のお舎利が日本へ渡来した由緒については、次のような伝承があります。
日頃仏法に深く帰依された重盛公は、宋国育王山へ妙典という船頭に、黄金三千両をたくし、結縁を求めました。妙典は宋国へ渡って、育王山の方丈、仏照禅師に逢い、三千両を渡し重盛公の意を伝えました。禅師は随喜感嘆、重盛公の仏法に寄せる志の篤さに感じ、育王伝来の仏舎利ニ顆を賜って、その篤志にむくいられました(平家物語・伝)。お寺の古文書には「南宋第二主孝宗淳熙二年(1176)乙未也」としるされています。
また重盛公は、平治の乱に亡び去った源氏の棟梁源義朝公の念持仏・如意輪観世音像を安置、怨親平等に平家・源氏の菩提をあつくとむらわれたと伝えています。以上が法楽寺の濫觴で、治承建立の伽藍は戦国末、元寇の頃まで護持され「殿堂壮麗にして巍々たり」と伝えています。
寺記に「正親町帝元亀2年(1571)辛未、秋九月信長摂を撃つ」としるし、寺は全焼、兵火が河内にまで及んだことを伝えています。天正13年(1585)に至って復興、江戸時代中期・正徳元年(1711)洪善普摂律師が、三僧坊の一つ河内の野中寺より晋山、本格的な復興をはかりました。大和大宇陀、三万一千二百名を領した松山藩織田家の殿舎を譲り受けたことが古記録に見えます。今日の山門・本堂がそれです。大和松山藩主は織田信長の次子、信雄を祖とする名族で、信長の兵火に焼けたお寺をその遠孫の殿舎で復興したのは奇しき因縁であり、織田氏もまた平資盛の子を祖とする平家の末流であることを思うと因縁の不思議さを感じます。
「※参照:法楽寺略記」 |
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| 住所 |
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大阪府大阪市東住吉区山坂1-18-30 |
| 宗派 |
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真言宗泉涌寺派 大本山 |
| 御本尊 |
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大聖不動明王 |
| 開基 |
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平重盛 |
| 創建 |
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治承2(1178)年 |
| 拝観料 |
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無料 |
| 年中行事 |
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1月元旦 |
初詣・歳旦吉祥護摩(三ヶ日) |
1月28日 |
初不動大祭・柴灯大護摩供
大般若転読法要 |
2月1日〜7日 |
節分厄払星祭 |
3月18日 |
英霊法要・春期彼岸会 |
4月上旬 |
四国八十八ヶ所巡拝 |
5月28日 |
五月大祭・柴灯大護摩供
雅楽演舞奉納 |
8月15日 |
お盆精霊経木流し |
8月18日 |
大施餓鬼会 |
9月 |
秋期彼岸会 |
9月28日 |
九月大祭・柴灯大護摩供 |
10月21日 |
四国八十八ヶ所お砂踏み |
11月28日 |
不動講総会 |
12月31日 |
除夜の鐘 |
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