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| 観心寺は文武天皇の大宝元年(七〇一)、役小角によって開かれ、初め雲心寺と呼ばれていた。その後、平安時代の初め大同三年(八〇八)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(八一五)、衆生の除厄のために本尊如意輪観世音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。 弘法大師は当寺を導興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(八二七)より造営工事に着手された。以後、当寺は国家安康と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。 後醍醐天皇は当寺を厚く信任され、建武親政後(一三三四頃)、楠正成を奉行として金堂外陣造園の勅を出され、現在の金堂ができた。正成自身も当寺に報恩のため三重塔建立を誓願される。 延元元年(一三三六)、神戸の湊川で討死後、正成の首級が当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十五坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。 「※参照:高野山真言宗観心寺 草創・開基」 |
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総計 |
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