| 修験道関連書籍 |
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図説 役行者
修験道と役行者絵巻
(河出書房新社) |
| 名刹に遺された秘宝を紹介しつつ、日本古代史の謎の超人・役行者の全貌と日本人の信仰の原点を明らかにする。国内外の美麗な「役行者絵巻」4本もカラーで紹介。 >>続き |
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役行者霊蹟札所巡礼
(朱鷺書房) |
1300年の昔に活躍した役行者は、修験道の開祖と崇められる。近畿各県にある役行者ゆかりの36寺が集まり巡拝霊場が結成された。その巡礼ガイド。縁起、地図・道順などを詳説。
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修験道―その歴史と修行
(講談社) |
山岳を神霊、祖霊のすまう霊地として崇め、シャーマニズム、道教、密教などの影響のもとに成立した我が国古来の修験道―。筆者自らが現場に立ち合って調査した、臨場感あふれる興味深い論考。開祖役行者が修行したとされる吉野を中心として、修験宗各派の教義と活動の場を詳細に比較研究し、「行」の重要な役割を浮き彫りにする。
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当葛城蔵王権現社は、今を去る約千三百年の昔、役行者が修験の道を開いて大和葛城より巡錫、この地に来り、行場を開かれた時に始まる。役行者(本名:小角、諡名:神変大菩薩)大和葛城で修行、更に吉野金峯山より大峯の峻険にいどみ、難行苦行を重ねること数年、ついに方術神仙の道を体得。かつて修行中霊夢に化現された蔵王権現の尊像を刻んで、これを本尊として蔵王堂にまつる。
修験道はこの役行者を開祖と崇め、神仏習合、山伏姿に身を固め、六根を清浄にして護摩をたき、呪文を誦して祈祷を行い、霊山に登り幽谷をわたり、難行苦行を重ねて心身の限界に挑戦、その結果、神験を体得することを本義とする。数ある修験道回行路の中、ここ葛城道は葛城・金剛の峯を主峯として西は友ヶ島宿より、北は亀尾宿(現在・柏原市内)に至る二十八宿法華経二十八品の経巻を納めた経塚をめぐらせた結界の浄土、海を渡り野を横切り、峯を伝い谷を越える延々たる難路である。
その一角ここ葛城蔵王権現社の地は、法華経二十八品中の第十四品・安楽行品を納めた所で、かつらぎ町大字大畑小字蛇尾八二四番地標高五九五メートル紀伊と河内国境の要衡蔵王峠の東隣に位置する。清流紀の川を眼下に遠く高野・吉野・大峯の聖地を眺め左の方は大和の山々、右の方は紀淡の海を遠望、四季折々の眺望はまことに絶佳という外ない。
紀伊続風土記には「境内周十四町、森広くして社は小祠なり。雑樹繁茂して物凄し」又、「大畑勝楽寺境内には行者堂護摩壇あり」と記し天保(一六三〇〜四四)初期の当地の状況を伝える。当時境内には既に天保の昔(一六四四〜四八)に奉納された役行者を刻んだ石像があり、又文化時代(一八〇四〜一八)初期惜しくも焼失したが薬師如来をまつる五仏院東光寺もあった。
思うに江戸時代のこの地は法螺が響き、錫杖の音も軽く山伏達の往来するにぎやかな修験街道であった。然しながら明治の初、廃仏毀釈の風潮で修験道は廃止に追込まれて、この道も急速に衰微する。全く放置されたままでの明治、大正と昭和の敗戦まで合せて八十年余の歳月、それは当社にとって余りにも長く寂しい歳月であった。
昭和二十一年三月、村雲鶴姫両稲荷大明神が一村人の夢枕に現れ、社殿再興の神託を告げたまい、たまたま時を同じくして門阪信顕師ここに詣で、余りにも荒廃した神域を慨かれて心ひそかに決意するところあり、これらを動機として広まった社殿再興の気運は次第にその輪を広げ、ついに大畑地区内外の氏子信者ら相集い、寄せられた巨額の浄財により、境内は拡張され、宮柱いと厳かに太敷き立ち、神域にふさわしい数々の施設・什宝を整備、千余年の由緒ある社殿をここに再興し一段と森厳さを加える、いささか神慮を安んじ奉ることを得たと思えば一同の慶びこれに過ぎず。ここに謹んで神々の御名を唱え、いや長き御加護を祈り奉る。
「※参照:葛城蔵王権現社 再興記」 |
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| 住所 |
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和歌山県伊都郡かつらぎ町大字大畑小字蛇尾824 |
| 主祭神 |
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葛城蔵王大権現
一言主大明神
丹生大明神
葛城王命 |
| 御配神 |
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大日大聖不動明王
役行者神変大菩薩
聖宝理源大師
村雲・白姫両稲荷大明神
黒光・白長両大善神
福重・清姫両稲荷大明神 |
| 御鎮座 |
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約千三百年前 |
| 拝観料 |
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無料 |
| 年中行事 |
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