| 修験道関連書籍 |
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図説 役行者
修験道と役行者絵巻
(河出書房新社) |
| 名刹に遺された秘宝を紹介しつつ、日本古代史の謎の超人・役行者の全貌と日本人の信仰の原点を明らかにする。国内外の美麗な「役行者絵巻」4本もカラーで紹介。 >>続き |
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役行者霊蹟札所巡礼
(朱鷺書房) |
1300年の昔に活躍した役行者は、修験道の開祖と崇められる。近畿各県にある役行者ゆかりの36寺が集まり巡拝霊場が結成された。その巡礼ガイド。縁起、地図・道順などを詳説。
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修験道―その歴史と修行
(講談社) |
山岳を神霊、祖霊のすまう霊地として崇め、シャーマニズム、道教、密教などの影響のもとに成立した我が国古来の修験道―。筆者自らが現場に立ち合って調査した、臨場感あふれる興味深い論考。開祖役行者が修行したとされる吉野を中心として、修験宗各派の教義と活動の場を詳細に比較研究し、「行」の重要な役割を浮き彫りにする。
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当茅原山 吉祥草寺は、修験道の開祖役行者神変大菩薩御誕生の霊地にして「第三十四代舒明天皇の創建、役行者の開基なり」(大和絵図、寛政三年編纂に詳しい。)
当時東西四キロ、南北五キロの境内には、七堂伽藍整い茅原山金剛寿院吉祥草寺と勅称され、十二箇院の本寺、三十七箇寺の末寺を有し、所謂四十九院の精舎には、地方五五〇〇キロの供料を賜り、根本中堂には本尊五大力尊を安置し、孔雀明王を塔中に安んじ、熊野権現を勧請して伽藍鎮護の神と為し、千手観音の像を祀って母君(白専女)の本地となし、弁才天の社を設けて福祐を祈り、舒明天皇の祈願所として実に隆盛を極めたのである。
第三十八代 天智天皇四年(西暦六六五年)役小角、詔を奉じて儺々絵ダダエを設け、正月元旦より二七日の間、天下泰平、四海静謐、五穀成就、
万民豊楽の祈願を致し、此の年自ら三十二歳の影像を刻んで寺に置き、神通力を以って金峯の嶺に修行を続けられたのである。
同天皇九年庚午(六七○年)四月、惜しくも諸同炎焼したが幸い本尊五大力尊像、竝に役行者影像は難を免れ、その後第四十代天武天皇白凰二年癸酉[(六七三年)白凰時代]に麻呂古親王が河内山田郷の万法蔵院を、現在の当麻寺へ移築の時、麻呂古親王奏問あって勅命により茅原山の再建が実現され、同八年巳卯(六七九年)九月、天皇吉野行幸の還御、茅原山に鳳輦を寄せられ、伽藍巡拝の上、高加茂氏の領するところを御寄進致され、朝家安全を祈祷する旨の詔勅があり、一山大衆による大法要を執行された。
第四十二代文武天皇四年庚子(七○○年)九月、気候不順のため五穀稔らず悪疫(痘瘡)続発して これに斃れる者その数知れず、天皇御霊夢により、当山に入御十七日の間御祈誓ありしところ、その霊験著しく燈明料として水田百アールを御寄進致され、翌大宝元年(七○一年)正月、盛大に法要を執行されたのが、今に残る当山『とんど法要』の始めであり、前述の如く、天智、天武、文武天皇と三代に亘っての皇室との関係は愈々深く、当山興隆の気運益々漲って、梵唄は天楽に和し、香煙霞の如く靡き実に隆昌を極めたのであるが、第九十七代 後村上天皇貞和五年巳丑(一三四九年)正月、足利尊氏が高師直をして吉野行宮を攻めた時、
惜しくも兵火に罹り輪奐宏壮であった大伽藍は悉く焦土と化したのである。
然し乍ら幸いにも、本尊五大力尊竝びに役行者御自作三十二歳の尊像は蓮池に難を免れ、以来歳月を経て第百代後小松天皇応永三年丙子(一三九六年)に再建されたのが現在の本堂にして室町時代の建物である。
「※参照:茅原山 吉祥草寺略縁起」 |
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| 住所 |
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奈良県御所市茅原 |
| 宗派 |
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本山修験宗 |
| 御本尊 |
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五大力尊 |
| 開基 |
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役行者神変大菩薩 |
| 創建 |
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舒明天皇御代 |
| 拝観料 |
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無料 |
| 年中行事 |
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1月14日 |
左義長(とんど法要) |
2月3日 |
星祭り厄除法要 |
5月7日 |
役行者報恩法要 |
11月第二日曜日 |
採燈大護摩供 |
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