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修験道関連書籍
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今から千三百年程昔のこと、笠置山千手窟で修行していた役行者は、不思議な神光に導かれて生駒山を越えこの地に到りました。岩上に草を敷き黙念する行者のまのあたりに千手観音が諸々の神祇を並び従えて姿を現されました。

そこでこの地を拓いてはじめて寺を建て、恵日山千手寺と題しました。ためにこの寺を俗に呼んで光堂(ひかりどう)と称し、また里の名を神並村(こうなみのさと)と号するようになりました。

また、平安時代のはじめごろ、弘法大師空海もこの寺に止宿され修法を修されました。ある日、青衣の童女が現われ大師に告げられました。「我は善女竜王だが、この寺の神泉に降臨し常の住いとしている。今汝の修法に感じて姿をあらわした。所求するところを述べてみよ。」と。

大師答えらく「役行者の観音像は特に霊験あらたかで、衆生がみだりに拝しているのはおそれ多いことであり、天竜の罰をこうむるでしょう。どうか願わくば浄材を得て模像を彫し、真像を胸裏に納めたいと思います。いかがなものでございましょうか。」童女の曰く「我れ幸にも補陀洛山の香木を所持して久しい。いく度か阿耨達池(あのくだつち)に浸しておきしものなり。今師のもとめるところに任せましょう。」といって隠れてしまわれました。大師は大層喜ばれて不日の内に観音像を刻まれ寺の奥におまつりになりました。

その後、いくばくもなくして維喬親王の乱によって堂宇悉く兵火にかかって炎上してしまいました。千手観音の像は自から深野池(鴻池新田あたりに位置した大きな池)に飛び入りそれを知る人は誰もありませんでした。その夜、天皇は在原業平と共にこの山にのがれられ、その時深野池中より光の放つのを望見されました。業平はしのもとを訪ねられ千手尊像を奉出し、その旨を天皇に奏しました。天皇は大層喜びあって香を焚き、治平を祈られました。世の中がしずまってから天皇は業平に命じてこの寺を中興し五院(上之坊・中之坊・下之坊・南之坊・北之坊)を建立され、庄園を賜って僧糧にあて、このあたりの名刹の一に数えられました。

業平が没したとき、堂の右に廟を築き生前愛玩の衣冠・歌集・楽器等を寺に納め、縁起が書かれた頃まで伝わっていたといいます。堂の北には観音大士の垂迹として熊野権現社がまつられ、また堂の後には三つの霊窟(古墳)があり、その一つを功徳天の洞といい、入ること百歩ばかりの深さがあったといいます。業平と恋した高安姫持念の尊で、難産や難病に祈念すれば効ありと伝えています。

以上が天正2年(1574)3月18日 千手寺大衆が記録した縁起のあらすじです。このときに古い縁起が大層読みづらくなっていたのでここに再録したと記しています。

「※参照:恵日山千手寺縁起」

 
 
住所
大阪府東大阪市東石切町3-16
宗派
真言毘盧舎那宗 大本山
御本尊
千手観世音菩薩
開基
役行者神変大菩薩
創建
1300年程前
拝観料
無料
年中行事
 
1月1日〜3日
新年特別祈願大法要
2月4日
節分祈願法要
3月15日
涅槃会
3月
彼岸会法要
4月8日
花祭
8月15・16日
孟蘭盆会・施餓鬼法要
8月23・24日
地蔵会
9月
彼岸会法要
12月31日
除夜の鐘