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| 伽藍は、サンスクリット語のサンガーラーマの音写である「僧伽藍摩」を略した語である。 サンガーとは釈迦を信奉する僧衆の集団のことで、アーラーマは園を意味する。 だから僧園あるいは僧院などとも漢訳される。 つまり仏道修行者の居住するところ、今日でいう寺(寺院)である。 もっとも建造物に限定されることもある。 なお「寺」であるが、もともと中国ではその語源からして、 役所を意味した。中国に仏教が伝えられたとき、 インドや西域の僧たちを鴻臚寺(のちには白馬寺)に住まわせた。 つまり外国からの客を接待する役所であった。 のちにそのことに因んで僧たちの居住するところを寺と呼ぶようになった。 なお日本語のテラは古代朝鮮語のチェラ(礼拝) またはチアラ(刹)の転訛したものといわれている。 わが国でこの「伽藍」の初出は早く、「日本書紀」の欽明天皇十三年(552)の記事にみられる。 「・・・・有司、乃ち仏像を以て、難波の堀江に流し棄つ。復火を伽藍に縦つ。・・・・」 (※日本書紀 岩波文庫より) ところで、「七堂伽藍」という用語がある。七つの堂塔を具えることが寺院として完全だという。 しかしこの七は個数を表わすのではなくて、完全(悉)を具えたとする説もある。 いずれにしても、この用語が使われだしたのは案外新しく、江戸時代のことである。 そしてその種類や名称も、宗派によって若干異なる。
以上はひとつの例だが同派によっても多少の異同がみられる。 なお「七堂伽藍」の呼称は中国には見当らず、わが国独自のものと考えてよい。 伽藍には、本尊を安置する堂(金堂・本堂など)、 仏舎利(釈迦の遺骨)をまつる塔婆、それに仏法を説く ための講堂や法堂、さらには経典を納める経蔵や、 時刻を告げるための鐘や太鼓を吊るす鐘楼および鼓楼など、 またこの他にも寺院としての機能を果すために必要な、さまざまな建物が建てられている。 これらの建物の配置を「伽藍配置」という。そしてその配置には一定の統一があり、 それは時代や宗派などによってさまざまな形式をとっている。 「※参照:寺社建築の歴史図典」 |
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| わが国へ正式に仏教が入ってきたのちに営まれた、 最初の本格的な寺院が法興寺(飛鳥寺)である。 崇峻天皇元年(588)に工を起こし、推 古天皇4年(596)に造り終えたと「日本書記」は伝えている。 「推古天皇四年の冬十一月に、法興寺、造り竟りぬ。 則ち大臣の男善臣徳臣を以て寺司に拝す。 是の日に、慧慈・慧聡、ニの僧、始めて法興寺に住り。・・・・」 (※日本書紀 岩波文庫より) この寺はのちに平城京に移されて元興寺となったが、金堂や塔などは旧地に残されていた。 しかし鎌倉時代の初め、雷火によって 「寺塔残るものなく、仏の頭手のみ残る」までに焼失してしまった。 そして再建されることもなく、その仏の「頭手」(飛鳥大仏)をまつる 小堂宇(安居院)が存在するに過ぎなかった。 ところが昭和31年からの発掘調査は、 そのもとの主要部分の伽藍配置とその規模を明らかにしたのである。 しかも明らかにしたのみならずその成果は、 これまでの日本建築史を書き改めるほどに画期的なものであった。 なぜならその配置は、 予測された南門・中門・塔・金堂・講堂と南北に一直線にならぶ、 いわゆる「四天王寺式伽藍配置」に反して、 塔を中心にして北に中金堂、左右にそれぞれ東金堂、 西金堂を配置した「一塔三金堂形式」が出現した。 この新しい伽藍配置の出現は、四天王寺や創建法隆寺(若草伽藍)の形式が 飛鳥時代唯一のものと考えていた、これまでの定説を覆すことになったのである。 この一塔三金堂の伽藍配置形式をとる寺院は、このときまでわが国はもちろん、飛鳥寺の造営にしたがった工人たちの故国百済の旧都でも発見されていなかった。 ただ類似の配置が高句麗の清岸里廃寺跡(平壌)と 新羅の皇龍寺(慶州)にみられる。 だからといってわが国の創意とみることはもちろん、 朝鮮半島とのつながりを無視するわけにはいかない。 一方、四天王寺式伽藍配置については、 四天王寺(荒陵寺)が、その創建年代について問題がのこるが、 いちおう飛鳥時代後期の造営を始め、 完成は奈良時代前期に及ぶとする説に従っておく。 その上で、創建以来たびたびの災禍で そのつど再建を繰り返してきているものの (現在は昭和38年完成の鉄筋コンクリート造)、 伽藍の配置や規模は創建以来ほとんど変わることなく踏襲されてきたことが実証されている。 また部分的な発掘ながら法隆寺若草伽藍(この発見まで、法隆寺式伽藍配置が四天王寺式伽藍配置と並ぶ飛鳥時代の形式と考えられていた)中宮寺、橘寺、山田寺などが、この系列に入るものと考えられる。 「※参照:寺社建築の歴史図典」 |
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この時代に入ると地上の遺構(礎石のみのものも含めて)も少なくない。なかでも法隆寺西院伽藍は、ほとんど創建時つまり白鳳時代再建時の形姿をのこしている。また再建法隆寺と、ほぼ時期を同じくして建てられたとみられる川原寺(弘福寺)は、前者のように地上にその姿を見せているわけではないが、飛鳥寺と同様、発掘によって確認されている。 その堂塔の配置は塔・中門・金堂・西金堂が鼎立するもので、中門から出発した回廊が対峙する塔と西金堂とを囲って、北の中金堂にとりつき、講堂はこの中金堂のずっと後方におかれている。 これに対して法隆寺のそれは塔と金堂とを東西に並べて、その前方の中門から出た回廊が経蔵・鐘楼をとりかこんで講堂にとりついているが、もとはすべて回廊の北に出ていた。 この両者の配置形式をみるとき、法隆寺のそれは明らかに川原寺の形式の形式を略式化したものとみられる。と同時に前時代(飛鳥)の四天王寺式や飛鳥寺式にみられたような厳正な左右対称を捨てて、非対称による和らぎをねらったものと考えられる。 なお川原寺の形式に属するものとして、崇福寺・南滋賀廃寺(いずれも滋賀)などがあり、法隆寺に属するものとして伊丹廃寺(大阪)・観世音寺(福岡)・多賀廃寺(宮城)などをあげることができる。 以上が奈良時代の前期つまり白鳳時代についてであるが、後期つまり天平時代は薬師寺伽藍から始まる。 薬師寺は、もと藤原京にあったのが平城遷都にともなって、現在の地西の京に移されたものである。この移建に当っての経緯については諸説があるが、ここでは触れない。 ただその伽藍配置や規模などについては、両者全く同一であったことが確かめられている。その伽藍配置であるが、金堂を中央にして前面に東西両塔があり、中門から発した回廊がこれらを囲って金堂後方の講堂にとりついている。このように前の時代(白鳳)に対称を破った景観が、ここで再び対称性にもどっているのである。 なおこれと類似の形式をとるものに、百済廃寺(大阪)・新治廃寺(茨城)などがある。ところが、この薬師寺と同じように旧京(飛鳥または藤原)から移った元興寺(飛鳥寺)・大安寺(大官大寺)・興福寺(厩坂寺)などは、旧寺の形式に関係ないく新しい伽藍配置を採用している。そしてこれらは一様に、塔を回廊の外に出し金堂を中心に計画したもので、金堂前の前庭が広々としているのが特徴的である。 ![]() この形式に属するのは前期の三寺(但し元興寺は若干異なる)の他、 東大寺・陸奥国分寺(宮城)などがある。 この他この時代の特殊な配置例としては、 八角円堂を中心とする法隆寺東院や興福寺北円堂さらに栄山寺八角堂などの伽藍があり、 また海竜王寺は中金堂と中門にとりついた回廊内に、 東西両金堂Gあ対峙してぎっしり建っている(小塔は両金堂に安置されていた)。 なおこれらに共通していえることは、いずれも小規模な伽藍だということである。 「※参照:寺社建築の歴史図典」 |
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